ピアノ調律師になって早10数年がすぎさってしまいました。わたし、若いときから・・・・(今だって若いつもりだけど)ずっとこの仕事をつづけてきてるけどなんでこの仕事を始めたのか?ってよくお客様にたずねられます。
そこで!!   私の過去・・・・を懺悔します













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1984年春まだ浅い浜松に、一人乗り込んでいった私でした。当時養成所では約100名の卵達が調律師を目指して入所していました。そのうち女性は3割・・・。全寮制で車の使用はもちろん、自転車も持ち込み禁止という、超不便極まりない生活が始まったのであります。当時寮のあったところは、ピアノのアクション工場の敷地内、そして、男の子達の寮は道を挟んですぐ隣という・・・・なんとも不思議な環境でした。



調律学校?では、朝の8時から夕方6時近くまで、ひたすらピアノと格闘していました。”ボックス”と呼ばれる3帖ほどの個室は太陽の当たらない地下にあり、そこにはアップライトピアノが1台、作業用の椅子が1脚、粗末な机?が1台それになぜかヘルメットが・・・・。怖いよ〜・・・。



当時、私を受け持ってくださった講師のかたはなかなかつわものぞろいでした。しかし、先生方の愛あるご指導のおかげでいまこうしてお仕事が続けていられるのであります。感謝感謝。
一年間という短くも、濃密な時間をこの浜松ですごせたのは、世間知らずの当時のわたくしにとってカルチャーショックあり、人生かんの変化あり最高の一年だったようにおもいます。



個性あふれる、同期生(同期といえども年齢も出身地も」みーんなバラバラ)に切磋琢磨され、やさしい先生に見送られ、とうとう卒業。希望と不安につぶされそうになりながらひよこ調律師たちは羽ばたくのでした・・・・・。おしまいおしまい♪チャンチャン♪
この”遠鉄バス”で毎日送迎してもらってた⇒